単記非移譲式の歴史
地方議会では120年を超える
現在は、複数人選出の単記非移譲式の選挙は、地方議会の複数人区および参議院の地方区の複数人区で行われています。とくに地方議会では、1899年以来、120年をこえて、いままでつづいています。
第13回の帝国議会での府県制(法律)の改正によって実現しました。その第十八条にはつぎのようにあります。
投票は一人一票に限る
選挙人は当日自ら投票所に到り選挙人名簿の対照を経投票簿に捺印し投票すへし
選挙人は投票所に於て投票用紙に自ら被選挙人一名の氏名を記載して投函すへし
衆議院でも90年を超える
衆議院議員選挙での導入は、第12回帝国議会から審議が始まります。地方議会での導入は衆議院議員選挙の改正の議論に影響をうけて、府県会の議員選挙で先に導入され、実施されます。衆議院議員選挙での導入の決定は、地方議会での選挙の実施のあとになります。
日本の衆議院議員選挙では、複数人区のある単記の非移譲式選挙が1902年から1993年まで続きました。例外は、1946年の選挙のみです。
ただし、1902年からの選挙は「大選挙区制」とよばれましたが、市部は一人区でした。一方、1920年と1924年の選挙は原敬の導入した小選挙区制よって実施されましたが、このときも二人区および三人区がありました。新憲法下では、1993年までは、奄美群島区を除いたすべての選挙区でこの方式で行われていました。
以下、このページでは、衆議院での導入事情について説明します。
導入事情I
「山縣有朋のたくらみ」なのか
M.ラムザイヤーとF.ローゼンブルースの著書
- 日本政治の経済学 (1993) 邦訳(加藤寛 他) 1995 弘文堂
- 日本政治の合理的選択 (1995) 邦訳 (河野勝 他) 2006 勁草書房
は、合理的選択論の考えにもとづいて、複数選出の単記非移譲式を分析しています。「日本政治の合理的選択」で、著者達は、複数選出の単記非移譲式の導入は、政党の弱体化を狙った山縣有朋の意図によるものだとしています。
この仮説自体は、松山治郎、杣正夫などによって唱えられていました。(松山 (1969) 選挙制度と政治情勢 杣 (1986) 日本選挙制度史)
彼らの議論は、中選挙区制は官僚に都合の良い非民主的な制度であるという結論を導くために使われてきました。
導入事情II
繰り返される「山縣のつくった制度」
近年の選挙制度に関しても、この議論がくりかえされています。
しかし、山縣が複数選出の単記非移譲式を考え、積極的に導入したという議論は史実ではありません。
歴史学者の伊藤之雄は、著者たちが大選挙区制を「山県が政党の力を弱めるために推進したと(四十五〜四十六)、憶測だけで論じている」(レヴァイアサン 19, 1996年秋) と批判しています。
M.ラムザイヤーとF.ローゼンブルースは、簡単な仮説から歴史を説明することを目指しました。しかし、彼らは、「仮説」と説明対象の区別をはっきりさせていません。さらに、説明の対象である事実認識に間違えがあれば、歴史を説明したことにはなりません。
導入事情III
伊藤博文が林田亀太郎に指示して導入
実際には、大選挙区制の導入の主体は伊藤博文です。大選挙区の単記非移譲式は、伊藤内閣の第12回帝国議会で政府案として提出されたものが最初です。このあと一時、総理大臣を退いていた間も、選挙法の改正に力をつくしました。
伊藤博文 演説政治 p.55 選挙権の拡張 p.59 衆議院議員選挙法改正法律案に就て p.95 欧州選挙法の変遷と我が改正案 p.119 衆議院議員選挙法改正案
(1) 山縣内閣は憲政党と連携する必要があり、政党に対して影響力のあった伊藤の意向を無視できない立場にありました。大選挙区制を廃止した原敬に対して山縣有朋自身は次のように事情を説明します。
(2) 伊藤は、国家の問題についてこれまでとは異なった判断を下せる政党の出現を希望していました。そして、自ら政党を率いるつもりでいました。そのためには、大選挙区で選挙を行うべきだと考えました。伊藤は連記制にしようと考えたものの、林田の提言によって単記制をとることになります。この意味では、制度導入の狙いは、単純に政党の弱体化といえるものではありません。
林田亀太郎 「大選挙区と伊藤公」 国民新聞 1912年3月12日
(3) 伊藤博文は大選挙区制を導入すれば、これまでより、名望家を選ぶことができる可能性が高いこと、地主ばかりでない多様な職業の代表を議員に選ぶことができると考えていました。
伊藤博文がいかにして、選挙法の改正に努力したかについては、次の文献に詳しく説明されています。 村瀬信一「選挙法改正問題と伊藤新党問題」 史學雜誌 108(11), 1891-1929, 1999年
導入事情IV
比例代表・単記移譲式を意識
林田亀太郎は、外国の選挙制度についてもよく研究し、大選挙区制が取られるときには、比例代表を意識しました。
大選挙区単記制が導入が決定する第14回帝国議会は、根本正が単記移譲式を提案した議会でした。
その後、林田は定数が様々選挙区が混在する制度を問題視し、中選挙区制の考えを発表しました。 「普選のしおり」 p.105- (1925年)
また、林田亀太郎は、比例代表法ではないことをもって、中選挙区制を不完全な方法だとみなし、改善の方法を探っていました。「普選読本」 1926年
実際、林田亀太郎は、単記移譲式の周知に努めたり朝日新聞1909年2月13日、単記移譲式とおなじ効果を生み出すための機械投票の開発を行うなどしました。林田亀太郎 (1910) 一事業一工夫實際の苦心と予が新發明の投票機 商工世界太平洋 9
林田は、法制局入局(1889)、衆議院書記官(1891)を経て、衆議院書記官長に就任後(1897)、大浦事件で辞職(1915)します。その後1920年に衆議院議員になります。注目すべきは、その後の選挙粛清運動や、第二次世界大戦後「中選挙区批判」の枢軸の一つになる旧内務省に属さなかったことです。