日本の単記移譲式

現在の日本の公的な選挙においては、単記移譲式は導入されていません。しかし、日本ではこれまでに単記移譲式の導入を目指した人々がいます。

J.S.ミルの翻訳

単記移譲式を英国に推進していたJ.S.ミルの著書 Considerations on Representative Government (1861) が日本の知識人の間に広がります。永峰秀樹による翻訳が 1878年に出版されます。

J.S.ミル (London Stereoscopic Company)

早稲田大学の創立者の一人、小野梓は、ベンサムやミルの強い影響の下、「国憲論綱」の中で単記移譲式を推奨します(生前出版されず)。

交詢社による紹介

明治のはじめには、交詢雑誌にて、阿部泰蔵(明治生命保険創立者)が単記移譲式を紹介しています。

阿部泰蔵

その後、津田純一や鎌田栄吉もこの制度について肯定的に取り上げています。

阿部泰藏 (1880) 交詢社役員選擧法ノ解 交詢雑誌2

交詢社と自由民権運動(福井淳)

根本正による法案

帝国憲法の時代は、日本でも導入が検討されていました。その理想的な性質から「公平選挙」ともよばれていました。根本正衆議院議員が帝国議会で提案しました。最初に提案されたのは、明治三十一年(1900年)のことです。

自由党報「公平選挙法」

明治四十二年(1909年)に提出された案は修正されて衆議院では可決されました。ただし修正後は単記移譲式とはいえないものになりました。

根本正については、根本正顕彰会編 根本正の生涯 に詳しくあります。帝国議会における提案については次の文献で詳しく解説されています。

板垣退助

民選議院設立建白書で知られる議会開設の功労者である板垣退助は、この方法の推進者の一人でした。

「選挙法改正意見」(刊行年不明)

「独論7年」(1919)

民選議員設立建白書
板垣退助と民選議員設立建白書

林田亀太郎

林田亀太郎と朝日新聞記事

単記非移譲式の「大選挙区制」の提唱者であり「中選挙区制」の考案者である林田亀太郎は、単記移譲式の啓蒙に務めました。(朝日新聞1909年2月13日)

比例的な結果を得るための。煩雑な作業をせずに、単記移譲式と同じ結果を得るための投票機械の開発にも取り組みました。

男子普通選挙

男子普通選挙は、比例代表への期待を大きくしました。議会の中に経済的に異なる階層の出身者が残ることが重要だと考えられたからです。この頃、貴族院議員で司法大臣や鉄道大臣を務めた江木翼が、単記移譲式を推進しました。「比例代表の話」(1928)

江木翼

この頃小選挙区制が改められ、中選挙区制が導入されますが、その背景にはある程度の比例的な結果を意図したものでした。

尾崎行雄 林田亀太郎 (1926)「普選読本」

選挙粛清運動

男子普通選挙の導入後は、政党の腐敗が問題になります。選挙に金銭がかかりすぎるとの批判に対して、政党は選挙制度の改正によって乗り越えようとします。

斉藤実内閣の諮問により、実施案が練られたことがありました。京都帝国大学の森口繁治は、二名までを順序づける方法を提案しました。この案は名簿式と移譲式のアイディアを混合したものでした。

森口繁治

昭和初期の選挙法改正については、次の文献で詳しく解説されています。伊藤之雄「ファシズム」期の選挙法改正問題」、『日本史研究』第212号、日本史研究会、1980年4月、 pp. 42-77

戦後帝国議会

戦後の選挙法改正の帝国議会で政府案(制限連記制)への修正として原玉重(自由党)が単記移譲式を提案したことがあります。残念ながら具体的な成案にはいたりませんでした。(細則を勅令で定める旨の提案)

戦後・選挙制度審議会

池田内閣下で設置された選挙制度審議会は、小選挙区制論者が多数を占めますが、中選挙区制の導入と小選挙区制の導入はたびたび挫折します。このような背景にあって、「単記移譲式」は、まともに取り上げられることはありません。しかし、同士討ちを緩和する暫定的な案として、単記で投票し、中選挙区に移譲を加味した案が提案されます。

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自民党組織調査会

自民党組織調査会(三木武夫会長)が、早川崇の考えに基づいて、「中選挙区投票委譲方式」を第二次選挙制度審議会に審議を依頼した経緯があります。(読売新聞 1963年年8月14日, 9月10日)。しかしこの内容は、単記移譲式と言えるものではありませんでした。有権者は一名の候補に投票し、基数を超えて当選した候補の票を党内の落選者の上位へ順次移譲していくものです。落選者からの票の移譲を考えない点で単なる名簿式比例代表とは異なります。

「選挙制度については私は早川式中選挙区移譲式というのを提案しています。」
「今の選挙区は三つ四ついろいろなものを飾ってくれているから消費者の選択の自由があるわけです。 ところが小選挙区になると、消費者である選挙民は選択の自由を失うわけです。」
「それで、私が考えたのは、このハーゲンバッハ方式による基礎数字より余計取る人がでてきた場合には、同じ政党の中の次点者に譲っていく。そうすることによって、中選挙区でありながら党内どうしの和解というものが若干ーすべてとは言えないけれどもー得られるのではないか。あわせて消費者のほうの選挙民は、自民党は好きだけれどもあいつは嫌いだ、ではこっちの人を選べ、という利点がある。」
早川崇「月曜会レポート251 自民党近代化の課題」 1965年9月9日 国民政治研究会

この提案は、実際に、選挙制度審議会に持ち込まれますが、小選挙区論者で自民党選出の青木正特別委員が消極的な説明を行うなどした為に、答申や報告に盛り込まれることはありませんでした。

第7次選挙制度審議会

第7次選挙制度審議会において、後の東京都知事の鈴木俊一が、早川案と同様の「中選挙区単記移譲式」を提案したことがあります。(読売新聞1971年10月6日)

戦後・選挙制度審議会

読売新聞の単記移譲式反対論

読売新聞は社説において、第二次世界大戦後(1946年10月5日)ほぼ一貫して小選挙区制を支持してきました。また読売新聞社の幹部は、選挙制度審議会などの委員をつとめてきました。自民党組織調査会から中選挙区委譲方式が提案されたおりには、「単記移譲方式に反対」と題した社説に乗りました。

しかし、次に引用するような反対論を書いたことから、社説の書き手は単記移譲式そのものについては基本的な理解ができていなかったと思われます。ただし、第二次選挙制度審議会第一委員会の委員長近藤操も、たびたび早川案を「単記委譲式」と呼んでいます。(選挙制度審議会 (1963) 第二次選挙制度審議会議事速記録)

「しかし、事実上完全な個人本位の投票になっている現行中選挙区制のままで、調査会の案のような単記委譲式をやってみても、どれだけ政党本位の投票が行われるか疑問である。たとえば多くの場合保守同士の派閥選挙になっている現行中選挙区制では、ある特定の候補者に投ぜられる票は大部分がその個人だけのもので、同一政党のものとはいえ、他の候補者に委譲されることは、投票者の意思にそむく場合が非常に多い。いまの中選挙区制で政党本位の選挙を徹底させるためには政党別の連記名簿式行うしかない。」(「単記委譲方式に反対」1963年9月24日社説)

「政治改革」の時代

投票行動の研究において知られる三宅一郎(神戸大学名誉教授 学士院会員)が、単記移譲式を提言しています(「投票行動」三宅一郎(1989))。

小選挙区制反対論で知られる朝日新聞の編集委員であった石川真澄が、単記移譲式を提案したことがあります。(朝日新聞 1993年 6月3日朝刊)

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