平成の政治改革

1990年台の選挙制度変更は、日本の議会制民主主義のありかたを大きく変えるものだったと考えられています。中選挙区制(単記非移譲式)批判を基にしたこのときの議論は、単記移譲式に向かうことなく、小選挙区比例代表並立制に帰着しました。

実際、衆議院での単記非移譲式は、1990年代に廃止され、小選挙区比例代表並立制が導入されます。

1994年3月に政治改革関連法案が、1994年11月に区割り法案が、1995年12月に修正法案が、成立します。そして、新しい選挙制度による選挙は1996年にはじめて行われます。第41回から第48回までの、9回が小選挙区比例代表並立制によって行われています。

この選挙制度改革がどのように起こったかについては、次の文献に詳しく解説があります。

吉田健一(2018) 「政治改革」の研究 選挙制度改革による呪縛 法律文化社

政治改革の時代の分析は、上記の文献に譲って、ここでは「政治改革」の大局を見失わないように、時代背景を整理し、「中選挙区制廃止」に活躍した主なグループを整理し、中選挙区制廃止は「権力の集中」を目指したものであったことを確認しておきたいと思います。

時代背景 I

短命連立と吉田ワンマン

敗戦後、日本国憲法下では、国会は国権の最高機関とされ、総理大臣は国会の指名によって決まることになりました。日本国憲法下での初めての選挙の結果、組閣されたのは片山連立内閣であり、続く芦田内閣も連立政権で内部の争いで瓦解します。そのあと吉田茂が1948年から1954年までの長い間総理大臣をつとめ、ワンマンとの批判も受けることになります。

独立・国民主権

サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本が独立すると、鳩山一郎をはじめとする公職追放を解除された政治家達は自主憲法の制定に興味を持つようになります。一方、官僚制は、旧憲法下から続く伝統をある程度保持します。国民主権を明言した日本国憲法下で、官僚をどのように政治統制するのかという問題意識も発生します。

このような状況の中で、理想を抱いて政治を志しながら、十分な根回しや気配りなしには、決定したいことがなかなか決まらないことに苛立つ人々が現れます。自然に思いつく短絡的な解決策は、権力を集中させることです。

時代背景 II

55年体制

吉田退陣後は、左右社会党の統一と自民党の結成によって、55年体制が始まります。戦前の無産政党の規模と比較すれば、社会党は大きく成長したものの、その後社会党が衆議院の多数派になることはありませんでした。社会党は内部で常に左右対立を繰り返しました。

一方、戦前は非無産政党としては政友会系と民政党系があったものの、戦後は自民党のほぼ一党体制になりました。したがって、自民党は内部に多くの多様な人材を抱え込み、いわゆる派閥抗争を繰り広げました。

55年体制の、第一党も第二党も内部に常に紛争が表面化する、分権的な政党だったのです。

中選挙区制廃止論は、55年体制成立以前から、一部エリート主義者達の抱く考えかたでした。鳩山一郎は、選挙制度調査会を利用して、小選挙区制導入を試みますが、国会を大混乱させた挙げ句に失敗します。鳩山の小選挙区制に向けた行動は、憲法改正の発議を目的としていたとも言われます。

小選挙区制論者達が希望を託したのは、池田内閣が設置した選挙制度審議会です。池田の後継である佐藤栄作が小選挙区制導入に前向きになりますが、次第に小選挙区制へ政治状況の変化によって、佐藤自身のその思いは弱くなっていったと推測されます。そして、田中角栄によるカクマンダーの騒動のあと、選挙制度審議会は休眠状態になります。

A.小選挙区制導入の老舗

少なくとも1950年代から「中選挙区廃止論+小選挙区導入論」を強固に主張し続けたグループには、つぎのようなものがあります。

昭和研究会・民主社会主義グループ

社会主義者特有の権力集中志向と片山・芦田内閣の挫折

矢部貞治・蝋山政道・鍋山貞観・片山哲・中村菊男・堀江 湛・岩井奉信・(加藤秀治郎)

元内務官僚・読売グループ

官僚的統制主義と選挙粛清運動以来の潔癖主義

正力松太郎・高橋雄豺・小林與三次・川島正次郎・古井喜実・後藤田正晴・灘尾弘吉

政治記者・旧朝日グループ

マスメディアの自信 新聞の世論(せろん)の重視

緒方竹虎・下村宏(海南)・野村秀雄・細川隆元・御手洗辰雄(読売)・阿部真之助(毎日)

使命感(エリート意識)を持った、私心のない(独善的な)、理念的な(イデオロギッシュな)主張は、たとえ一面的であっても、強い説得力を持ちます。これらのグループは互いに重なり・交流をもち、学界、政界、選挙制度審議会、マスメディアなどで運動を展開し、代替わりをしながらも、最終的に中選挙区制廃止・小選挙区比例代表制の導入を成し遂げることになります。

B.政党

自由民主党

政界で小選挙区制導入論がたびたび沸き起こったのは、自由民主党です。初代総裁の鳩山一郎は、改憲の公約の実現に向けて、小選挙区制の導入をもくろみますが失敗します。重要なことは、選挙制度については自民党内も簡単にはまとまらないことです。しかし、小沢一郎を中心とする経世会の反主流派は、選挙制度改革に関して一枚岩となり、新党を結成し政治改革の主役に踊り出ます。

社会党・公明党

社会党・公明党は、はじめは、単純な小選挙区制にも並立制にも導入に反対しますが、政治改革期には(比例代表を基調とした)併用制を推進するようになります。やがて、連用制に妥協し、ついには並立制に妥協していきます。

民社党

民主社会主義グループの影響もあって、結党時こそ民社党は政権交代・二大政党を志向し、小選挙区比例代表制支持を打ち出します。しかし、1965年に民社党は現行制度維持・小選挙区反対論に傾きます。しかし、政治改革期には賛成に転じていきます。

C.「有識者」会議

議会に代わるエリート会議によって、政策を決定するという昭和研究会的な発想をもつ組織が、中選挙区制廃止をすすめることになります。

選挙制度審議会(1--7次)

鳩山一郎の選挙制度改革を担ったのは、選挙制度調査会です。この選挙制度調査会にかわって、池田勇人内閣の下に法律に基づいた選挙制度審議会ができます。メンバーを選ぶのは内閣なので、中選挙区廃止論者達が意識的に集められます。中選挙区廃止論者達は、今日でいう政治的資源を理由に、定数是正など当初期待されていた問題に本格的に取り組むことを避けようとする一方、「区制問題」すなわち中選挙区制廃止について多くの時間を割こうとします。一方、1960年代は社会党・民社党の伸び悩み、公明党の進出・共産党の復調などが影響して、野党は小選挙区反対論にまとまっていきます。第7回の選挙制度審議会のあと、田中角栄が小選挙区比例代表並立制の導入に失敗すると、選挙制度審議会はしばらく眠りにつきます。

時代背景 III

80年代後半からにわかに小選挙区制導入論は活気づきます。

政治ニュースを親しみやすく伝えた「ニュースステーション」の放送が始まり、テレビタックル、朝まで生テレビなどの政治討論番組の放送が開始されます。テレビ政治を主導したテレビ朝日は、後に椿問題を引き起こします。

自民党は長期政権を予想された竹下登が、リクルート事件によって退陣、中曽根・宮沢・安倍といった実力者も謹慎をよぎなくされます。内務官僚出身の後藤田は、党内で選挙制度改革をぶち上げて、第8次選挙制度審議会が、竹下内閣の末期に企画され、宇野内閣の元で発足します。

死んだふり解散による衆参同日選で大敗を喫した社会党は、土井たか子を委員長に選出します。土井たか子はクイズ番組に出演するなど、人気の高いに政治家になります。社会党は、委員長土井の人気によって、1989年参院選に改選第一党につきます。原理主義的な言葉だととらえられがちな、土井の「ダメなものはダメ」という言葉は、国会内の安易な妥協を避けて、選挙民にアピールするという戦術的な側面がありました。

土光臨調に参加した財界人・学者は、その成功によって、政治改革への自信を持ち始めます。労働界は再編成がおこり、連合が発足、社公民路線による政権構想もそれなりの話題になります。財界・労働界ともに、政治に自信を深めます。

D.第8次選挙制度審議会

80年代には、新たなに選挙制度審議会(第8次)が発足します。相変わらず小選挙区制論者に偏った人選です。特徴的なのは次の二点です。第一に、国会議員を参加させない形で発足したことです(第1次から第7次までは「国会議員」が特別委員として参加していました。)。第二に、NHKや全国紙の論説委員・元記者など、メディア関係者が多数登用されたことです。朝日新聞の社説は、第8次選挙制度審議会およびその後の民間政治臨調をつよく擁護し続けます。

メンバー

会長 小林与三次(日本新聞協会会長 内務官僚・読売) 委員(財界)石原俊(経済同友会代表幹事 日産)、亀井正夫(日経連副会長 住友) 労働界:竪山利文(全日本民間労組連合会長) 学界:阿部照哉(京大教授)、内田健三(法大教授 元政治記者)、佐々木毅(東大教授)、佐藤功(東海大教授)、堀江湛(慶大教授 民主社会主義グループ)(官界)新井裕(元警察庁長官 内務官僚)、河野義克(元参院事務総長 内務官僚)、坂本春生(元札幌通産局長)、藤田晴子(元国立国会図書館専門調査員)、皆川迪夫(元総理府総務副長官、内務官僚)、山本朗(都道府県選挙管理委員会連合会長、中国新聞会長)(法曹界)江幡修三(元検事総長)、堀家嘉郎(弁護士)、吉国一郎(元内閣法制局長官)(マスコミ)新井明(日本経済新聞社長)、川島正英(朝日新聞編集委員 元政治記者)、清原武彦(産経新聞論説委員長)、草柳大蔵(評論家 元記者)、斎藤明(毎日新聞論説委員長)、中川順(日本民間放送連盟会長)、成田正路(NHK解説委員長)、播谷実(読売新聞論説委員長)、屋山太郎(評論家 元記者)

小林與三次会長(読売グループ)および堀江湛第一委員長(民主社会主義グループ)の下で議論をすすめ、小選挙区比例代表並立制を答申します。

E.土光臨調・民間政治臨調

経済界での第一のキーマンは、土光敏夫です。土光の注目すべき点は、合理化を私企業だけでなく、行政や政治においても追求した点です。経団連の会長につくと、財界から自民党の派閥および自民党の政治家への政治献金することの非効率性を問題視し、派閥の解消・挙党態勢を要求しました。1980年代、土光臨調(第二次臨時行政調査会)が組織され、国鉄・電電公社の民営化を成し遂げられます。

土光臨調のもとで国鉄民営化で活躍したのが、経済界での第二のキーマンである住友電気工業の亀井正夫です。亀井正夫は、第8次選挙制度審議会に参加後、政治改革推進協議会(通称「民間政治臨調」)を組織し、中選挙区制廃止を掲げることになります。

この組織は中選挙区制廃止後、21世紀臨調と改名し、「マニフェスト=政権公約選挙」を推進することになります。そして、2022年にはいって、「令和臨調を立ち上げることになります。民間政治臨調・21世紀臨調・令和臨調の特徴的なところは、マスコミが常に好意的に取り上げることころです。

時代背景 IV

自民党の分裂・ついに中選挙区制が廃止される

党内基盤の弱い、海部は選挙制度改革に積極的に動きます。第8次選挙制度審議会は、中選挙区制を一方的に批判し、並立制を答申します。しかし、国会の支持を得てない海部の政治改革は挫折します。

しかし、佐川急便事件後、経世会が分裂し、再び政治改革が焦点になります。第8次選挙制度審議会の挫折から、亀井正夫をはじめとするメンバーたちは、民間政治臨調を立ち上げ、マスコミの支援を得ます。ヨーロッパの冷戦終結による社会主義のアイデンティティを失い、「連合」の発足によって浮足だった野党は、にわかに新選挙制度での政権交代を夢見る議員が増加します。金丸失脚によって政治力が低下した経世会の反主流派は選挙制度改革を争点とするようになります。一方、民間政治臨調を、「国会に代わる機関ではない」と批判した梶山静六をはじめとする経世会主流派はマスコミの中で守旧派の代表としてイメージされるようになります。

経世会反主流派は、宮沢内閣不信任案に賛成し自民党を離党、その後の衆院選挙で、非自民政権が成立します。このときの選挙のTV報道のあり方は、後に椿問題として問題化されます。連立与党の法案は、参議院で否決されるものの、細川護熙・河野洋平のトップ会談が開かれ、ついには中選挙区制が廃止されます。

時代背景 V

政治改革の夢のあと

政党づくりに資源を浪費

社会党の消滅、新進党の創立と消滅、民主党の創立と消滅、大阪を地盤とする維新の創立、立憲と共産党の選挙協力。その後の日本の政治達は、小選挙区比例代表並立制の下で、非自民系の政治勢力づくりに資源を浪費してきました。

しかし、衆議院選挙の投票率は、中選挙区制時の水準に達したのは、2005年の郵政選挙、2009年の政権交代のときだけで、政党づくりの模索は選挙民の選択肢にはなりませんでした。

一方、小選挙区制が中心の選挙制度で生み出された国会は、集中化されすぎた権力が問題化されます。

政治改革の推進者およびその後継者達は、陳腐な中選挙区制批判と短絡的で観念的な国民主権論を四半世紀もの間持続させています。後継者達は、平成の政治改革の失敗をその「非徹底ぶり」に帰して、その方向性の問題点を認めようとしない傾向にあります。